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日本の暦と国の重要文化財『星学手簡』

2023年(令和5年)は,日本が太陽暦に改暦してから150年の節目の年であった.それ以前の日本は,一貫して太陰太陽暦を使用している.太陰太陽暦は月の満ち欠けで1か月を定め,閏月で1年の長さを調整する暦法で,古代から世界各地で使われていた.

例えば紀元前1世紀のギリシャでは,太陽や月,惑星の運行を再現し,日食月食の予測が可能で,古代エジプト式カレンダーを表示でき,かつ太陰太陽暦を作ることができる,歯車式のアナログコンピューター「アンティキティラの機械」が開発されていた.

日本の暦の歴史1も,中国渡来の太陰太陽暦から始まり,江戸時代前期までは,その伝統が続いていた.冲方丁著の小説『天地明察』で有名な渋川春海(後の幕府天文方)も,当初は中国の暦である授時暦の使用を支持したことが知られている.

しかし,春海は同暦に欠点を見出し,日本独自の「大和暦(後の貞享暦)」を完成させる.「貞享暦」も太陰太陽暦ではあるが,暦による予測と,月や惑星の観測結果との比較により,正確性が立証されていった.

その後は陰陽寮による「宝暦暦」を用いることとなるが,宝暦十三年九月の日食を暦に記載しないという失態をおかす.これを受けて再び天文方により「修正宝暦暦」への改暦が行われるが「宝暦暦」を微修正するにとどまった.

独自の進化を始めた日本の暦は,高橋至時間重富らの手によって,中国の天文暦学書『暦象考成(後編)』に記載されたケプラーの楕円運動理論を取り入れ,西洋天文学に基づく暦「寛政暦」へと変化してゆく.

算学に優れ西洋天文学理論への理解を深めた至時は天文方となり,改暦の任を命じられた.一方,重富は裕福な商家を営み,さらに天文観測装置の考案・開発に才を見せた人物である.二人は天文学者の麻田剛立に師事した研究仲間であった.

至時は重富の協力を得ながら,江戸,京都で天測,測地といった準備を行い,やがて西洋天文学の理論と,精度の高い観測に基づいた「寛政暦」を完成させることとなる.至時には伊能忠敬が弟子入りし,のちに有名な高精度の日本地図を作成した.

「寛政暦」より後,太陽暦への改暦の直前までは,日本最後の太陰太陽暦である「天保暦」が使用されていた.

この度,国の重要文化財に指定された『星学手簡』は,高橋至時と間重富の間で交わされた書状を中心に集成された上中下の3巻から成る書物である.江戸後期の天体観測や天文暦学研究の実態,観測・測量機器の考案および改良,また「寛政暦」までのいきさつや,さらには忠敬の全国測量の実情を詳細に伝えている.これらは至時の次男である渋川景佑により編集されたと考えられている.

『星学手簡』は幕末まで渋川家に所蔵されていたが,明治前期に科学思想史研究家の狩野亨吉の手に渡り,のちに東京天文台(現,国立天文台)に譲渡された.この手簡は現在も国立天文台に所蔵されており,ウェブサイトでも公開している.ぜひご覧いただきたい.

備考

1) 「改暦150周年企画(前編):時代の変化と日本の暦―古代・中世―」および「改暦150周年企画(後編):時代の変化と日本の暦―近世・近現代―」を参照. → 本文(1)に戻る

暦象年表2024より